マスコミは生き残れるか
大手新聞の発行部数縮小、民放テレビの視聴率の低下等、今まで「情報」を売って稼いでいた企業の業績悪化が目立つ。その背景には、SNSを筆頭とする新たな情報ビジネスの台頭がある。21世紀に入るまでは、マスコミ全体で考えれば一つの大きな独占企業といえた。ところが、インターネットの普及とともにその状況は大きく変わろうとしている。
インターネットがない時代を想像してみてほしい。朝起きてニュースを知るには、新聞を読むかテレビをつけるかしかない。家を出て会社や学校に行く途中、スマホもなく会話の中でしか情報を得られない。上司や先生からの伝聞。一日が終われば家へ帰りテレビを見る。このように限られた情報源(新聞、テレビ、伝聞)しか存在しなかった。この状況を考えると、「情報」を売る新聞やテレビが莫大な利益を上げていたのもうなずける。
21世紀に入り、パソコンだけでなくスマホまで普及しいつでもどこでも簡単にインターネットにアクセスできるようになった。そうなるとわざわざ朝早く起きて新聞を読んだりテレビを見たりする必要はない。新聞ほど詳しくはないがスマホで少し時間のあいたとき、ヤフーにアクセスすれば事足りる。家へ帰ればプログラム通りに番組を見せられるテレビを見る必要はない。ネットにアクセスして、自分の興味のあることを好きなだけすればよい。もちろん、新聞やテレビも依然として影響力は大きい。しかし、選択肢が増えたということに話題を絞ると、それは紛れもない事実である。
選択肢の増加は独占状態の崩壊に他ならない。独占状態にあれば莫大な利益を独り占めできた。しかし、利益を分け合う主体が増えれば分母の数が大きくなり、一主体あたりの利益の配分は小さくなる。その証拠に、新聞の発行部数は年々減少しており(図1)、テレビの視聴率も以前より大きな数字は取れなくなりつつある。利益の減少とともに、社員数・年収も減少してゆくだろう。数十年後、「情報」を売る仕事はなくなってしまうのだろうか。

アメリカの記者の年収は、たとえばニューヨークタイムズのような大手紙でも平均8万ドル(600万ちょい)程度*1だという。日本では、読売新聞や朝日新聞などの大手紙になると1200万円はもらっているだろう。日本のマスコミでいうと、まだまだ給与の下がる余地は大きく残っている。給与の減少とともに社員の質が下がり、サービスが劣化するかもしれない。しかし、極端に消滅してしまうということは、直近ではまず考えられない。
近年の新聞の発行部数の減少などは、独占状態の崩壊によって発生する当然の結果なのだ。インターネットの登場によって情報の価値が相対的に低下した。じゃあ、何もお金を払って新聞を読む必要もないや、と考える人が少しずつ出てくる。そうして発行部数が徐々に減少してゆく。しかし、ネットで得られる情報にも限界があって、新聞記者がやるような役人から聞き出したり、企業の重役からリークしてもらったりというようなことは絶対にできない。理由は簡単で無料だと割に合わないからである。
ある程度は「情報」を売ってもらうことも必要なのである。そのある程度がどのラインになるかは分からない。しかし、必ず必要であることは確かである。結果として、「情報」を売るビジネスってのは存続しうるのだ。
*1:ネットがソースなのでアレですが
守るべきもの
アダム・スミスの有名な言葉に「見えざる手」がある。別に経済学を学んでいない人でも、その言葉だけなら知っている。「経済学と言えば?」と問われればはじめに出てくる有名な言葉だ。だが、有名すぎてその言葉だけが独り歩きしている感がある。規制緩和、利己心の追求。完全なる競争社会こそ是とすべき。日本では小泉元総理の構造改革などで有名になった、新自由主義。200年も前のアダム・スミスの時代から競争原理は説かれていた、と例えにあげられる。その結果、利己心の追求こそが経済学であるという風潮が広まってしまった感は否めない。だが、アダム・スミスの考えはむしろ正反対に位置するモノだった。
彼は大学では道徳哲学を主に学んだ。人間の中にある「道徳感覚」が人間の行動を決めるというものだ。彼は生涯で2冊の本を著しているが、近代経済学の礎となる『国富論』の前に著された『道徳感情論』は、その名の通り道徳哲学の本であった。
人間は幸福を追求する。ただしそれには制約がある。その制約こそが、個人の内部に形成される価値観や倫理である。人間は時として悪い方向へ流されそうになるが、内部に刑された「道徳観」によってそれが規制される。
端的にまとめればこのようになる。確かに人間は利己心の赴くままに行動するが、それには制約もある。ところが、「見えざる手」というスミスの考えを端的にまとめたとされる言葉では表し切れていないのである。人間は他者を思いやることを最優先すべきで、その制約下で利益を追求すべきだ、という大事な部分がすっぽり抜け落ちてしまっている。彼は決して冷徹な人物ではない。個々人と、ひいては人類全体の幸福と繁栄を祈っていたのである。
『国富論』もそういう前提のもとに書かれている。市場参加者の自由な競争こそ全体の繁栄をもたらすが、それは社会秩序があってこそ成立する。独占や不正が蔓延した社会ではそのような前提は成り立たない。スミスははっきりとそのように述べている。しかし、現代社会ではそれが忘れられているのではないだろうか。
あらゆる境地において人間はそれを楽しむことができる。平穏な生活こそが真の幸福である。しかし、人間はある物事を過大評価しがちだ。真の幸福を引き出しうる快楽は、ほとんどの場合いつも我々の手近なところにある。それを見失って偽りの幸福を求めてしまう。スミスはこのように述べている。
今の世界を考えてみる。高所得者は自らの稼ぎをより増やそうとし、政治家は自らの保身ばかりを考え、国民は借金で身動きが取れなくなろうとしているにもかかわらず増税に反対している。リスクを顧客や会社にひた隠しにし、自分の利益を追求したばかりに引き起こされたリーマンショック。正常な思考を失い、返済ができなくなるほど借金を増やしたばかりに発生した欧州危機。すべて、個人が秩序を無視して、自己の利益を追求しすぎた結果である。
まず、本当の幸福が何かを考えるべきだと思う。家族、友人、趣味、娯楽、仕事、恋人。幸福はいくらでも手の届くところに転がっている。それを全て満たしてから、あるいは、倫理的に許される範囲で金を求める。それならば何も問題はない。
ところが、現実は逆なのではないか。金がないと困る。金さえあればいい。ここ一年で起こった事件を思い出してみるだけでも、個人が金を求めるあまり法を犯してしまった事例がいくらでも出てくる。金だけではない。例えば行き過ぎた虚栄心。社会での地位を求めるあまりないがしろにされる秩序。そんな事象がこの世には渦巻いている。
もちろん金はあったほうがいい。求めるのも個人の自由だ。ただ、幸せはいたるところに転がっているというのも重々承知しておくべきである。
自己の利益を追求することと、社会の永続を願う心理を両立させることは難しい。自己犠牲の精神がある程度なければ実現しえないことであるように思う。そして、自己犠牲の精神を持つことは難しい。なぜなら、人生は一度きりで他人の幸せにかまっている暇はないからである。
しかし、みんなが他人の幸せにかまっていられる社会だったらどうだろう。みんなが、人類の永続を願うような社会だったらどうだろう。それこそが代々受け継がれてきた人間としての「価値観」であり、人間が人間たるところの「倫理」に他ならないのではないだろうか。ところどころで道を踏み外しながらもそのたびに自省し、何千年もかけて人類が守ってきたものは、何よりも大切な我々の社会全体の幸福である。
売り言葉に買い言葉、強硬論、今騒がれている領土問題につけても、本当の幸せとは何なのか、本当に守るべきは何なのか、先人たちがいつも大切にしてきたものを見失っている気がしてならない。利益を追求しつつ、他人も思いやる。そういう社会が21世紀に求められているのではないだろうか。そしてそれこそが、スミスの思い描いていた社会に他ならないのだ。
生きること
「僕の夢は総理大臣になることです」
日直が毎朝行う一分間スピーチ。事前にお題が出されてそれについて1分間自由に話すことになっている。このときのテーマは「将来の夢」だった。
「総理大臣になって、日本を僕の手で動かしたいんです。そうして、みんなが幸せな素敵な国を作れたらいいと思います」
なんてことのない朝だった。クラスのみんなが席の近い者同士で楽しそうに話している。しかし、スピーチが始まると途端に静かになり、視線が一か所に集まった。お決まりの拍手もいつもより大きかったような気がする。もう10年以上も前の話だ。
◆
幼いころはみんなに夢があった。プロ野球選手、お花屋さん、電車の運転手、お嫁さん。自分が好きなものやあこがれるものを、素直に夢として話していた。
どうやったらなれるかなんてわからない。でも、なれたらいいな、絶対なるんだ。決して嘘なんかじゃなく、本気でなろうと思っていた。大人になって楽しそうに仕事をしている自分を想像する。そうやって誰もが幼少期を過ごしてきた。
僕はまだまだ幼い。たった20年生きてきただけだ。その幼い僕でさえ、幼いころの夢とそのときの輝いた瞳は、もう失ってしまった。僕だけじゃなく、これくらいの歳になるとみんなそうじゃないのかと思う。
幼いころに語っていた夢。歳を重ねることで見えなかったものが徐々に見えるようになってくる。例えば、その職に就くために必要な能力、働いて得られる賃金。頭の中で楽しそうにしていたはずの自分がいつの間にか笑わなくなっている。私の学力じゃ無理だ、こんな給料だと満足な生活はできない。理由は様々だが、社会の黒い部分が見えてしまい、夢は夢として葬り去られる。早ければ中学校を卒業時、遅くとも大学院修了時には、身の丈に合った選択肢を選び、ただ生き永らえる道を歩むことになる。
◆
中学校のとき、勉強に自信のあった僕のプライドはずたずたにされた。一学年の人数がそれまでの4倍に増え、秀才の数はそれ以上に増えた。中間テストで6位、期末テストで9位、実力テストで15位。小学校では天才とちやほやされた僕も、クラスにいるそこそこできるヤツの一人になってしまった。完全に井の中の蛙だった。
友達にテストで毎回3位以内にいるやつがいた。勉強だけじゃない、スポーツもできる。陸上部に所属していて全国大会の表彰台に上るようなやつ。本当に何でもできるタイプだった。世の中にはかなわないやつもいる。そこには「総理大臣になる」とクラスの前で発表した、自信に満ち溢れた姿はない。僕の牙はいつの間にか折れてしまっていた。
「中学の時のあの子、東京大学に受かったみたいよ」
夏の帰省で母に駅まで迎えに来てもらったときのことだった。
「えっ、あいつまだ浪人してたの?」
僕は今年で大学3年生。ストレートで今の大学に入ったので、彼とは2年差ということになる。彼は中学3年生の時に関東へ引っ越してそれきり。久しぶりに彼のことを聞いた。
「どうしても東大に行きたかったみたいね」
母からすると何気ない会話だったのだと思う。だが、僕の中では何かもやもやとしたものが広がっていた。
僕は中学2年生の時、落ちこぼれかけていた。成績は30位を下回るようになって、部活にもほとんど顔を出さない。2年生の夏休みには両親と大喧嘩もした。それくらいぼろぼろになっていた。
状況は改善しないまま春を迎え、いよいよ受験生になる。彼が転校するという噂を耳にしたのはちょうどそのころだった。
「俺、東大行って外交官になるからな! お前も東大、来いよ!」
3年生の終業式、そう言い残して彼は地元を旅立った。
この言葉を受けて頑張った、――わけではなかった。将来やりたいことも特にないまま、とりあえず勉強をそれなりに頑張って、今ある選択肢の中から最善のものを選ぶ。そうして今に至る。ただ、死なないでいる、だけだった。
彼とは中学校以来話していない。だが、楽しそうに大学に通う彼の姿、中学時代と同じように、いつも一生懸命な彼の姿が簡単に想像できた。
◆
いろんな人生がある。彼のように自分の信念を曲げずに突き進む人生もあれば、手元にある幸せを守る人生もある。仕事をしてお金を稼ぎ、大事な家族を養う人生もある。どれがいいとか、そういう話じゃない。けれど、やっぱり、彼のような人生は幸せなんだろうなと思ってしまう。
少なくとも、僕の人生では面白くないと思った。何となく職について、一生を終える。いいや、違う。ただ生き延びるだけじゃつまらない。せっかくの命、自分が生きた証を残したい。流れてゆく街灯を眺めながら、強く思った。
隣の芝生は青い
何でもかんでも、他人のものがうらやましく思えてしまう。
「えっ、お前、○○のインターン行くの!?」
「報酬5万とかやべえ〜〜」
「お前の彼女クッソかわいいな〜」
自分の持ってるものと比較して、どうしても他人のものは優れて見える。
人間とはそういうものである、ということわざだ。
新古典派経済学的には、このような人間の行動はあり得ない。
「ピピピ! 俺の彼女の可愛さ68、お前の彼女の可愛さ59、よって俺の勝ち!」
何か比較しようとすると、人間は瞬時に数値化できる、と仮定する。
だから、自分のものが優れていれば、羨ましがることはない。
最近力が入れられている行動経済学では、「嫉妬する」人間を描こうと努力されている。
物事の善し悪しを判断するとき、どうしても相対的に考えてしまう。
自分は年収1000万もらってて、最高の生活をしている。
けれども、隣の部屋に年収2000万の人が引っ越してくると、どうしても悔しく思う。
年収2000万円の人が、ずっと忙しく働いていたとしても、羨ましく思う。
人間は他人の行動に関して、過大評価してしまう。
実験において、そのような習性があることが示されつつある。
「あいつの彼女可愛いな……。ムカツク……」
自分の幸せが絶対的なものであれば、幸せ度を上げるには自分が頑張るしかない。
しかし、幸せが他人に影響される相対的なものであれば、
自分で頑張るか、他人の足を引っ張るか、2通りの選択肢がある。
そして、この社会は自分で頑張るよりも、足を引っ張る方が簡単にできるようになっている。
「あいつの悪い噂吹き込んでやろ」
こうして、他人の足を引っ張る。
もし、それで二人の関係がギクシャクすれば、確かに個人の幸せは増えるかもしれない。
が、社会的に見たときに幸せは減少してしまっている(パレート改善ならず)。
嫉妬は悪いことではないと思う。
嫉妬を昇華させて、自分の活力にすることだってできる。
でも、現実社会では、おそらく多くの人が足の引っ張り合いをしている。
どうやってアイツを首相から引きずりおろすか。
国際競争の中、いかにして韓国を引きずりおろすか。
自分が越えるのではなく、相手を自分のポジションまで下させる。
そういう視線でしかないように思う。
今の日本は、嫉妬している場合ではないにもかかわらず。
あと、経済学云々ではないけれども。
いつ何時も「羨ましい」「いいな」「ずるい」と言ってる人はカッコよくはない。
俺は頑張ってるんだぜ、とアピールする人。
他人に惨めな思いをさせ、自分を持ち上げようとする感が見えて、結局カッコよくはない。
自分の価値観が絶対的。
ひたむきに、黙って、いつの間にか、知らないところで、頑張る。
そういう人が、一番カッコいいと僕は思う。
国際通貨制度ノート
明日のテスト答案まとめ。2問できてませんが…。
国際通貨制度 テスト答案
- 語句の説明問題
1. SDDS
1996年に策定された、基本的な経済データを公表するための基準。データの範囲、一般からのアクセス、信ぴょう性などの基準を定めており、SDDSに加入した国はその基準を順守する義務がある。
2. CMIとCMIN
CMIはアジア通貨危機の反省として、東アジア諸国における二国間通貨スワップである。
少額である、二国間のみである、無条件に引き出せる額に制限があるなど、多くの問題点があったが、2010年にマルチ化される、2012年に2倍の準備額に引き上げられるなど、徐々に利便性が改善されつつある。
3. ハイパーインフレーション
物価が急激な勢いで上昇すること。特に、通貨危機に際して通貨の信用がなくなるとハイパーインフレーションが発生する。
4. 第1世代危機と第2世代危機
第1世代危機は固定レートを導入している国において発生するものであり、輸入超過によって外貨準備を使い果たした国に訪れる危機である。主に通貨の流出によって引き起こされる。対して、第2世代危機は変動レートを採用している国にも発生する者であり、投資家の投機的な群集行動により急激な資本流出が発生し、それによって引き起こされる危機である。
5. マーストリヒト収斂基準
ユーロ導入の際に満たさなければならない基準である。①インフレ率は、最も低い3か国の平均を1.5%上回ってはならない。②長期金利が、最もインフレ率が低い3か国の、長期金利より2%上回ってはならない。③為替レートを2年間、再調整してはならない。④財政赤字がGDP比で3%以内である。⑤借金総額がGDP比で60%以内である。これらの基準を満たす必要があった。
6. ハードペッグ
ハードペッグは、カレンシーボード制もしくは自国通貨の代わりに他国の通貨を用いることである。カレンシーボード制とは、自国通貨を他国通貨にペッグし、外貨準備として保有しているだけの自国通貨を発行する制度のことである。これにより、自国通貨に信任を持たせることができ、無制限な乱発もできないためインフレも終息する。
7. Bipolar view
1990年代中ごろに現れた考え方である。その当時起こった主な危機は、固定レートやペッグされた為替レートによるレジームだったという認識に基づいている。ペッグされたレジームにおいては、ヘッジされない借金が奨励される傾向にある。そのためバランスシートは脆弱になる。Bipolar viewは、実行可能なレジームは「ハードペッグ」か「フリーフロート」のどちらかである、という考えである。ある国が資本移動を自由にするならば、ハードペッグ以外のペッグ制では持続できない。ハードペッグにするか、もしくは完全に変動相場制を受け入れるか、ということである。
8. Catalytic financing
危機に瀕している国に対して、単独で介入するのではなく、協調する国と共同で介入することを指す。単独で行うよりも資金面でより大きなものが期待できるので、効果が増すと考えられる。
9. Exchange rate based stabilization
激しい物価上昇の危機に瀕したときに、インフレ率低下を目指して行われる固定相場制への移行のことである。特に、ラテンアメリカ各国において用いられた。
10. IMF surveillance
IMFの主な業務の一つである。国や世界、地域の経済・金融の発展をモニタリングしたり、IMF加盟国の経済政策について助言を行ったりする。危機の予防への役割が期待される。
- 記述問題
1. 最適通貨圏の理論の枠組みで、共通通貨圏としてのCFAフラン圏とGCCを比較せよ。
CFAフランを採用している国は、すべて相対的貧困国で、農業・鉱業で成り立ってる国であるが、それでも最適通貨圏と成立するには多様的すぎる問題(輸出品がコーヒー、ココア、綿、ウランなど様々)がある。また、経済統合も限定的であるので、最適通貨圏であるとは言えない。対してGCCは、すべて石油で成り立っている国であり生産構造は似通っているためこの点では最適通貨圏の条件を満たしている。しかし、域内の流通が過小であるため、この点においては最適通貨圏の条件を満たしていない。
2. IMF専務理事M. Camdesssusは、いかなる意味でメキシコ危機を「21世紀最初の金融危機と呼んだのか。
メキシコ危機以前の通貨危機は、国際収支の不均衡による外貨準備不足などが原因で発生したものであった。対して、メキシコ危機では国際収支が原因ではなく、急激に短期的な資本の流出が原因である。これは今までの危機には見られなかった傾向である。その点で21世紀最初の金融危機と呼んだ。
3. インドネシア危機管理において、IMF structural conditionalityはなぜ批判されたのか。またその後、それはいかに改革されたか。
IMFコンディショナリティとは、IMFの融資を受ける際に受け入れなければならない条件である。インドネシアにおいては政府が意図しない政策を実行するように迫った。当事国の主権を侵してまで、政策を押し付けるべきではないとして批判された。その後、当事国の政治状況に応じた、実行可能な政策を提案するように改革された。
4. 債務危機を経験する国において、景気後退と債務持続性のジレンマとは何か。それを克服するために何ができるか。最近のアルゼンチンとギリシャの事例を挙げて論ぜよ。
アルゼンチンやギリシャは債務がGDP比で100%を超えるなど、非常に大きな債務を背負っていた。債務持続性に疑問を持った投資家は国債の投げ売りなどを行ったため、デフォルトの危機に陥ることとなった。一般に、債務危機に陥った国は緊縮財政を取り、財政再建を行うことになるが、増税などにより景気後退が予想される。ところが、景気を優先すれば債務不履行に陥ることは確実であり、両者のジレンマに陥ることになる。
5. 国際収支赤字と高インフレを伴う経済危機を解決する手段として、IMF programは過度に緊縮的で、経済成長にマイナスの影響を与えると批判されることがある。肯定的および否定的観点の両面から評価せよ。
国際収支赤字と高インフレを伴う場合、一般的にはまず緊縮策が取り入れられる。肯定的な意見としては、債務削減やインフレの終息を目指す以上、緊縮策以外に妥当な政策がないとするものである。また批判的なものとしては、急激な緊縮策により、失業者の大量発生、景気の急減速などの歪みが発生する、といったものや、主権国家の内政に干渉する行為である、といったものである。確かに緊縮策は取らなければならないが、政治の状況に合わせて、実行可能な範囲で行うことが必要だろう。
6. 実体経済の統合によって地域間の生産の相関関係は強まるのか、弱まるのか。この答えは通貨統合の是非にどのような意味を持つか。
7. アジア通貨危機の当初、為替レートの減価は全体的に経済にプラスの影響をもたらすと考えられていたが、結果は逆であった。その理由をoriginal sinの概念を使って説明せよ。
アジア通貨危機においては、危機国の通貨が総じて過大評価されていたために、切り下げを予想した激しい通貨売りが行われていた。そのため、為替レートを切り下げることによってそれが解消されると予想され、実行された。ところが、当時の東アジアでは、自国通貨建ての金融市場が発展しておらず、借入などは全てドルを中心とした外貨建てで行われていた。そのため、為替レートの減価は借金の肥大化を招き、さらなる通貨の信用危機に陥ってしまった。自国通貨建ての借り入れができない状態をoriginal sinという。
8. 経済統合のプロセスに関して、国家主権および超国家主義の意義に触れつつ、欧州とアジアを対比せよ。
お金と幸福
経済学で取り扱われる「個人」はお金が大好きだ。
お金があればあるほどうれしい。いっぱい欲しい。金さえあればそれでよい。
この世はお金さえあれば何とかなると思ってる。そういう人間を想定する。
経済学での「社会」も同じような感じ。金がすべての社会。
金さえあればのし上がれる。金がすべて。金で解決できないものはない。
金さえあればすべてのものが手に入る。そんな社会である。
今、企業が工場を建設しようとしている。
工場建設に際して、利益が100億円上がることが分かっている。
ところが、建設によって周囲の豊かな自然が失われてしまう。
そのことによる損失は、一番悲観的な見方で50億円である。
経済学の箱庭では、当然のように工場を建設する。
100億−50億で、50億円が手元に残る。なら、当然建設でしょ、となる。
周囲の不利益を被る人々も、ちゃんとお金さえ払ってくれるなら構わない。
そういうスタンスである。
対して、現実ではそうはならないことは確実、だと思う。
「50億払うって言っても、豊かな自然が失われるのは耐えられない」という住民の声。
環境団体が「自然を破壊するとは何事か!」と言って猛反発。
工場用地の周りに立ち並ぶ、「断固阻止!!」「工場は撤退せよ!!」みたいな看板群。
そんな光景が容易に浮かんでくる。
経済学と現実世界の差はどこから生まれてくるのだろうか。
- 幸せの定義
人間は幸せを得るために行動する。これはおそらく真理だと思う。
経済学上では幸せをいかに最大化するかが問題になるが、現実でもそれに近い。
誰も不幸になるために今日を生きているわけではないだろう。
考察する対象によって多少変わるものの、経済学における幸せ*1は「どれだけ金があるか」である。
それに対して、現実では必ずしもそうではない。
もちろん、金があるに越したことはない。金がなかったら何も買えない、何もできない。
金があることで幸せが増加するのは確かである。
でも、それだけではない。
周囲の人との関係、平穏な生活、感謝されること、趣味、食べ物、などなど……。
金をいっぱい手に入れること以外にも膨大な要素から成り立っているのである。
そして、その時々によって、幸せ度に与える影響が大きくなったり小さくなったりするのだ。
先の工場建設の例で考えてみる。
住民は金よりも平穏な生活のほうを重視した。
環境団体は何よりも「豊かな自然の存続」が大切である。
看板を立てた人は、理由なんかないかもしれないが、とにかく立ち退いてもらいたいのだ。
人には個性がある。何を幸せと感じるかもまちまちである。
だから工場建設に関しても、経済学で描かれるようには進まない。
- 幸せを規定するもの
幸せは個人の価値観だから、どうやって育ったかが大きく影響する。
親に「他人には優しく」と言われ続けていたら、
ボランティアに参加することを幸せと感じるかもしれない。*2
江戸時代の武士社会に生まれていたら、
主人に奉公することこそが幸せと感じるかもしれない。*3
イスラム圏に女として生まれたら、
肌を隠すことも当然だし、教えに従ってるとして幸せに感じるかもしれない。*4
幸せや価値観に影響を与えるものは、
「周囲の価値観」「文化」「宗教」であることが分かってくる。
そういうものが個人を形成し、そうした個人によってそれらが構成される。
もし社会が「景観を残すべきだ」という考えなら、多くの人々もそうすべきだと思っている。
経済学は「コストに見合ってない」と批判するかもしれない。
でも、「幸せ」ということを考えると、その批判はナンセンスである。
- 幸せの画一化?
最近思うのは、幸せの定義が画一化されているのではないか、ということだ。
特に、経済学の想定する「お金大好き」な人間に近づいている気がする。
本当のリスクを顧客に隠して提示する証券会社。
投機的機会を拡大し続けている金融市場。
過疎化は「必要悪」だとする自由市場の推進。
すべて、経済学が考える「理想的な社会」である。
ところが、現実は理想的だろうか。
どこも同じように廃れつつある地方都市。
失われつつある日本人の美徳。
それと同時に画一化される文化。
仕方のないものとして容認される所得格差。
確かに、金を得られるようにはなった。そのためにすべてのものが効率化されている。
しかし、それが本当に「理想的」なのか、僕は怪しいと思う。
原発再稼働のホント
- 原発の再稼働
7月1日に大飯原発の再稼働が行われた。
春先から関電と橋下市長や政府の間で粘り強く交渉が行われていたが、
ついに関電の主張を通す形で再稼働が決定、ついこの前再び発電を始めた。
それに伴いおおい町で反原発デモが行われたようで、
それに反応する形でネット上でも激しい論争になっていたように思う。
反原発派の主張ってのは「未来永劫住めなくなるからダメ」
「原発推進派は人でなし」だとか、ちょっと感情的なものが多いのでアレだが、
原発容認派は、「原発ゼロではGDPを1%も押し下げる」
「ストレステストなどを経たので安全は保障できるし、そもそも地震により破壊される確率自体が限りなく小さい」など、
数字に基づいたものが多いので、なるほど、確かに納得できるようなものになっている。
だが、今回の福島原発事故による事実に基づいて考えてみると、
このような原発容認派の主張にも穴があるということがはっきりわかってくるのである。
- 短期的に見た原発再稼働
ネットでちょっと拾ってきたソースなのでアレだが、
今回の事故による東電の賠償が5兆円、また今年の除染費用が1.5兆円であるという。
今後も除染費用は大幅に必要になることが分かっており、原発事故による日本の信頼低下などの期待損失も計上できるので、
ここではざっくりと原発事故が発生した際のコスト総額を100兆円としておこう。
日本では1960年から原子力発電を利用し始めており、50年間かかって今回のような事故が起こった。
原発事故発生の確率を単純に2%とすると、原発事故による期待損失は2兆円となる。
今年原発を再稼働することに関しては、
なので、このことは理にかなっているといえる。
また、企業の赤字を改善する点についても全うである。
以下の図のように、短期的な局面においては人々も需要量を変えられない。
このような場合は供給量を減らすということが企業には不可能になる。
このためにより上方の限界費用曲線で運営せざるを得なくなるし、
それに伴いあがるはずの価格も、法律による制限で元の価格P1のままになっている。
そのため、赤色の斜線部分だけ赤字が発生しているにもかかわらず、
企業はその赤字が発生したまま延々と発電を続けなければならなくなる。
ここで原発を再稼働することができれば、低い限界費用曲線の下で発電することができるので、赤字はなくなる。
よって、今年限りにおいては、原発を再稼働するという選択は社会的に見ても、
企業の赤字改善という点で見ても、理にかなっているといえる。
- 長期的に見た原発再稼働
ただし、長期的、今後10年や20年にわたって原発を稼働し続ける、という話になると別である。
長期的な話になると、消費者も省エネ家電を導入したり、
生活のパターンを変えることなどによって、需要量を自由に変化させることが可能になる。
また、供給側も火力発電を導入するなどの生産体制を変えることにより、自由に供給量を変化させることができるようになる。
そうすると以下の図のようになるのだが、D1が需要曲線、Sが供給曲線になる。
市場均衡はEとなり、原発によるリスクを考えなければ、確かにそれでよい。
しかし、長期的になると事故の確率も無視できない値になるし、企業も生産設備を作り変える時間の余裕がある。
このために、原発を使い続けるということに対して、社会的な負の外部性が発生し、その損失が赤色の斜線部分になるのである。
- どうして原発再稼働の是非が間違っているか
今現在の原発再稼働容認派については、大部分は今後どうすべきかという意見が聞かれないと思われる。
目先の1年2年をどうするかについては、確かに再稼働するのは正しい。
ただ、感情的になっている反原発派に対して、容認派も不必要に感情的になっているように感じる。
「原発は危険」という意見に対しては、
「短期的にみると経済損失は大きいが、確かに危険であることは間違いないので減らしていかなければならないことは事実だね」
と優しく冷静に諭せばいいのである。それにもかかわらず、
「放射能と癌の因果関係なんて、そもそも統計的には有意ではない」とか「ストレステストを経たので絶対安全だ」とか、
「危険か安全か」という方向へと走ってしまったので、収まりどころのない論争に発展してしまったのではないか。
原発再稼働は個人的には賛成であるが、ネット上の論争を見ていると、
両者ともに感情的に相手を拒絶することへ向かっている気がしてしまうのだ。
- 個人的にはこうすべきだと思う
最後に、長期的にはどうすべきか、という意見が聞かれないので、個人的な意見になるが述べてみたいと思う。
外部性については長期的なことについてしか述べなかったが、短期的にももちろん発生している。
ただし、供給側の努力により外部性を排除することができないので無視して理論を進めた。
長期的に外部性を内部化するには、経済学においてしばしば使われるのが「ピグー税」である。
上の図に戻ると、ちょうど水色の部分だけ税金を取ることによって、社会的に最適な量であるX*に到達することができる。
僕はこの局面においても、ピグー税によって解決できるのではないかと思う。
原発により企業は再稼働前よりも多くの余剰を生むと考えられるが、その一部に課税する。
得られた税金によって低リスクな生産設備建造の補助に充てればよいし、
もし再び事故が起これば、その税金で補償をすることができる。
税の負担は両者に配分され、特に需要曲線が垂直だった短期的な局面では消費者にすべてが配分されることになってしまうが、
これまでと同様、法律によって価格を定めればそのような心配もないのである。

